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ながめくらしつ『終わりをみながら』

ながめくらしつは全公演をみているわけではないが
前回見たのは2014年4月の「おいていったもの」

(これはちょっと時間がなくて最後の5分くらいがみれていないせいもあるし
出やすいようにかなり後ろでみたせいもあるのだけど
そこまでの部分だけでいうけれど、)
これまでの作品だとこれよりは
2011年3月の「何かの中」がすきだった。

そして今回2014年12月の「終わりをみながら」

まずはホームページの紹介文から一部抜粋
http://nagamekurasitsu.com/show_daredemonai.html

 実力と個性を併せ持つ2名のミュージシャンと4名のパフォーマーを迎え
 エアリアル、マイム、アクロバット、ダンスなどの多様なパフォーマンスを取り入れて
 音とモノと身体の関係性をより繊細に美しく描き出す本公演『終わりをみながら』。



音楽がまず格段によくなった。
これまでも音楽にいた坂本弘道の音に
イーガルさんの音が混ざることで、音の中に光と闇が同時に存在するようになった。
光と闇でなくてもいい、優しさと哀しさでも、深い呼吸と浅い呼吸でも
いずれにしても音が二律以上の状態を同時に含む糸になった。
もっとも大きな変化かもしれない。



次に役者さん
バーバラ村田と塚田次実
これがまず奇跡・・・出会っていてもおかしくない距離にいたし
モノ使いという同じ側面を持つ二人だが
共演は初、この初なところもまたいい。
(もしかしたら回をかさねると、逆にあうんの呼吸がとれるようになって
今の絶妙な対存在感がすこし薄れるかもしれない)と思うほどに
同種でありながら異種であり、個でありながら対である。
次実さんの重力の強さと、村田さんのあやかしをはらむ躰。
立っているだけで見ていて泣ける質感の身体、これは役者の中でこのふたりだけのもの。

そして
谷口界、役者として見るたびどんどん良くなるが
今回の役柄は泳がせてもらっているのがいい。泳いでいるのがいい。
一公演全体を率いる力量もある彼だがその役どころを追わずにすんでいるだけに
気負わず出し切れているし、抑えることで引き込んでくるようなことも出来ていて
動きの質は風。
村田さんと次実さんが重力をもつ存在として、いっそ持たない。
こころすら飛ばせるような。
(ここを経てこの次の彼の演出作がいつかみてみたい)

長谷川愛実さん、
前回遠くから見ていてはわからなかったけど
今回最前列で見て、その肉の語ること
動きひとつを作る肉に始まりから見惚れた。

宮野玲さんのことは専門外なので述べられないのだけれど(すみません)
(個人的にリングの平面プラの質感にはボールの質感ほど愛が湧かなかったりなども…)

美術は名づけるようなものはなく
ポールとか扉とか呼ぼうと思えば呼べるが
おそらく見ながら名を認識はしない感じ。

各役者がモノと触れているのをぽーっとみていると
空間は次の風景になっているような

無言のままたぶん作品全体で90分くらいあったんじゃないかと思うけど
気が付けば後半の時間にいるだろう。

後半は
『終わりをみながら』
主題がよく消化されていく。

世界にこたえがあるとして
(ここでいうこたえは正答というよりは真理)
極めて正しい判断なのか(こたえをひろいあげているのか)
極めて正しい思考なのか(こたえにたどりついているのか)
目黒がどちらで作っているのかそれはわからないけれど
まったく間違わず真理を紡ぎだしていく

ティシューの天の長谷川愛実に対し
地をつかさどるバーバラ村田と塚田次実がいい。

波のようだった時間もそれが身体と結びついているのも。

ジャグリングやサーカス・エアリアルがただ夢をささやき、ひととき天にいざなうような幻でなく
ティシューの天の身体の下に、地の身体を挟むことで、【ここ】まで流れてくる。



そのあとの
客席から現れ舞台にあがる、ただ白い3つボールを
ただ何の技法もなくカスケードする目黒

それはもうジャグリングへの福音というか

はじめにみっつのボールがあった。
みっつのボールは、すべてとともにあって。
いくつ回すことが出来ても何人で受け渡すことができても、
それはみっつをまわしたときから、いまなおここにすべてを


そうした形で、作品の挨拶文
 「ながめくらしつの作品が持つ、舞踊や身体表現としてのジャグリングの可能性、
 そして創り手や自身の心の中を垣間見る様な、
 夢と現実と記憶の狭間の世界に是非触れてください。」
それはおわる。

音を残して奏者が消える。
光の中に白い3つ球をまわす目黒が残る。
光が消える。
最後の音が消える。



あえて次への道があるのなら大きくはふたつだろうか。
今回かかげているのが「音・モノ・身体」

国立ラボの系列では「(人形)・音・モノ・灯」なので
灯りの意識はすこし弱い気もした。

過不足はないが、
「音・モノ・身体」が多層化できたのに対し
灯りは一義である感があるといったらいいか

照明自体も光の中に闇があるような性質をもつことができたら



そして私の場合だとこういうの見ると途中何度かそのものに泣いてしまうのだけれど
(作品というのはこういうふうにどこで泣かせるでもなくただ泣けてしまうようなのでないといかんと思うわけだけれど)
webで感想をざっと見るとこれをうっとりと書いていた人も官能と書いていた人いたけれど

真理自体は誰もしらない真理ではなく
そこにあるものだから

もしこの先があるとしたら
目黒自身も知らないか目黒にしか見えないかどちらかの類の真理を可視化されたら
それは震える、だろうな・・・。


ながめくらしつ『終わりをみながら』_d0179447_331223.jpg

(チラシ裏の村田さんの写真は私撮ったのでした(^-^))



ヨハネによる福音書(新共同訳)
1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は、初めに神と共にあった。
1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
・・・



by a-avenue | 2014-12-23 02:13 | 人形演劇について

手回しオルガンの木の音色 まちからここから www.temawashi.org
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